gorod’s diary

楽天ブログに過去記事あります

感情の奴隷…自我の奴隷…

ナウシカを読んで。
そして以下の動画を聴いて。
- YouTube

対立が起こる原因が何となく分かってきたような…気がする。

ナウシカに出てくる「オーム」を想像すると分かりやすい。
真っ赤に燃える赤い目…。
こうなると手がつけられない。
周りの蟲達も同調し出す。
エヴァ初号機の暴走モードのように相手を同等だと感じられなくなり、そして尊敬や感謝とは正反対の対象として映る。

これらは感情によって自分自身が支配される。
感情は何処から作られるのか?
それは…自我から産み出される。

自我とは一体何なのか?
何故、自我が芽生えるのか?

自我は…今まで自分に与えてきた情報によって生成される。
情報とは、外への繋がりで得られたもの…。
価値観、道徳、倫理観、宗教観。
二元の世界が生み出すものとは、全てが裏と表が表現される。
この表現されたものを、必ず白黒つけたくなる欲求…これが自我というもの。
ずっと、ずっと、これをやり続けている。

この生まれた自我を。
自我が作る白黒を、私たちは忠実に実行していただけに過ぎない…ということが、何となく気付いたこの頃。

何故、ずっと対立しているのか?
目の前に見える景色が、何故、二分割された状態で表現されているのか?
ずっと疑問だった。

それは…自分自身が、白黒をはっきりしないと困るという現実をただ、ひたすらに創っていただけではないかと…。

白黒を作るというのは、対立を創り出す。
良い悪いが出来上がる。
そして…その世界が反映される。

何故、競争心が生まれるのか?
これも二元の世界だからこそ、作られる事象に過ぎない。

私たちの感情は、この自我の持つ価値観、道徳感、倫理観、宗教観により優劣を付け、優となるものに対しては「善」と染まり、劣となるものには「悪」と染まるようになっている。
この染まり具合で、自分自身が動くようにコントロールされている。

このコントロールにより、世界は出来ているのだ。
創造しているのだ…。

感情に振り回されているというのは、自我に振り回されている。
これは…自我の奴隷になっている…ということになる。

自我に振り回されて、振り回され続けて、その結果、どのように感じられるだろう?

楽しいと感じるのであれば、そのままで問題はない。
この話自体、求めていないはずだ。

辛い…きつい…もう嫌だ!!となるなら、原点に帰る最高のチャンスである。

「私」は、何故、この世界を創造したのか?
この世界で何をしたかったのか?
自我を一旦脇に置いて、自分自身へ問いかける。
かなり時間が掛かるかもしれない。
でも、無駄なものは何一つない。

ふと気がつく一瞬が現れる。
「あ…ただ体験したかっただけだ」
と、私はそう感じた。

この世界には、二元しかないという自我から産み出したものだと気付く。
本当は…この世界は、二元以上のものがあると気付くゲームであること。
裏表の間…この間こそが沢山の次元があることを知れる世界。

沢山の個性を創り出した「私」は、何故、沢山の個性を産み出したのか?
1つ1つの個性…これこそが、次元であるってこと。
多次元にいる…その中の1部が私ということ。

分離しているようで、分離してない。
ただ次元の違いなだけ。
それを物質で表現しているのが、この世界。
全ては「私」の一部。

対立が起こるのは、分離していると錯覚出来ているから思えること。
分離してると錯覚出来るのは、自我の成せる技。

自我がなければ、この錯覚は生まれない。
ゲームが出来ない。
遊べない。
ただそれだけ。

対立が嫌なら、対立を創る自我の現れの原点を知ればいい。
干渉が嫌なら、干渉するキッカケは何だったのかを知ればいい。

知ることで、更に道は広がる。
選択肢が増えていく。

自我は二元の中で忙しく振り回してるってことに気が付けば、なんてことなかったって。
全て自分が生み出してたって。
笑える時がやってくる。

その後の世界こそが、願っている平和そのもの…。
平和を壊しているのが、結局は自分自身だった…って気が付いた瞬間だろう。

そんな瞬間を…「私」は、身体を持って体験したいのだろう。
それは…既に手にしているものだから…。