自分が「この世界の創造主」ということに気付かず、比較をすることが当たり前になっているとします。
…そもそも「比較」自体がナンセンスなんですけどねw
え?何でナンセンスか?って?
「比較する」という行為が既に分離思考そのものなんですよね。
さて。何故に「比較」するのか?なんですが。
見える事象はすべては出来事なんですよね。
それに色を付けるのが「個性」の力なんです。
どう感じたのか?
どうしようかな?って考えた内容も「個性の特色」なんですよね。
みんなそれぞれが別々の考え方をするから、面白い世界が出来上がります。
たくさんの色が出来るという感じですよね。
全く同じ食べ物であっても作る人の個性が入るので、全く別のものになる…。これです^ ^
さて。「比較」の話ですが、そもそもの話。何を使って比較してます?ってことなんです。
比較するということは、物差しが必要です。
この人より出来る。出来ない。
この人より幸せだ。不幸だ。
この人より背が高い。低い。
この人より金がある。ない…。
…並べてみると「比較」というのは、他人として人を見るからその対極を作り上げているということに気付きませんか??
対極を作り上げている原因は何でしょう?
そしてその対極を作り上げて、自分自身は楽しいですか?
まず最初。
この人より出来る。出来ない…。
何の物差しで測っていますか?
優れてるか否か…?
どういった基準で測っていますか?
そして、その「出来ない」というのを、その人が敢えてやっているとしたらどうですか?
え!そんな真逆!!って思いますか?
この世界は見事に二極を構成してますよね。
男と女。子供と老人。プラス極にマイナス極。善悪。明暗。優劣…。
そして「何故、二極を創り上げたのか?」という疑問が出てくるんですよ。
これは元々が一つであった頃。
一つであるから「比較」の対象がないんです。
本当に私は優しいのか?
本当に私は穏やかなのか?
本当に私は優れてるのか?
他人や物、すべて自分自身を分離しなくては見えないものだった。
だからこの二極の世界を創り上げた…。
これに見事にハマり、分離・比較の世界。これだけが世界だと勘違いする程に、私達は更に葛藤するという体験をし尽くしています。
比較することが悪いことではないんです。
これも一つであった時に「どう感じるのか?」を知りたかったから。
でも、その「比較の世界」を終わらせることも出来るのです。
味わい尽くしたら、別の物が食べたくなる。
これと同じなんです。
比較とは、これも価値観があってこその体験の一つです。
出来る人・出来ない人ということ自体、実はない…のが本来だったりします。
意味付けしてるのは、その「価値観」のみに存在するものですから…。
もし比較の世界に飽きたのなら、その価値観を探してみるのはどうでしょう?
見つかれば、それを手放すことが出来ます。
あ。
この人より幸せ・不幸っていう妄想は手放した方が良いですよ。
何が幸せか?は人それぞれなんで。
自分はこれが幸せだと定義しても、他の人はそれが幸せと感じないかもしれません。
むしろ幸せだ!と思う人と一緒に幸せ感を堪能することをお勧めします。
私達は逆をやっちゃっているんです。
幸せだ!に嫉妬するように意識が動くようになってしまっているんです。
そうではなく、その幸せ感に同調・シンクロすることにより、幸せな体験が出来るんですよね。
だって、この世界は自作自演ですよ?
自作自演ってことは、創造主と言ってるのと一緒ですからねw
嫉妬するってことは、その嫉妬感が自分に跳ね返ってくるだけなんで…。それって楽しいですか?ってことなんですよね。
前の記事でも書いた「仕事に厳しい」という話と一緒なんですよ。
今見えてる現実が少しでも面白くないのであれば、比較する原因を突き止めてみましょう^ ^
無意識下に閉じ込めてしまっている価値観をサルベージするのは大変ですが「手放そう!」と意図するだけで、現実はそちらへ移行するようです。
パラレルワールドを移行するともいえますねw
パラレルワールドを創るというのは、無意識に誰でもやってることです。
これも思考の成せる技なんですよね。
…思考の力ってすごいです!
それに感情が伴うと見えるものがすべて一変します。
比較することが無くなると…。
すべてのものがそのままで問題ない!と感じます。
すべてが愛しい…。存在するだけでこれ程すごいことはない!と感じます。
ではでは!